fc2ブログ

織田信長 日本(戦国時代) 1534年~1582年

第三回目は、いよいよ日本人を取り上げます。
日本史上屈指のアントレプレナー、
乱世を突き動かした織田信長について見てみましょう
    
∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠
 第三回 ○織田信長 日本(戦国時代) 1534年~1582年
∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠∠

       ~勝ち方を知る~

織田信長は、長篠の戦において、甲斐の武田氏を破りました。

この戦いで、信長は、当時最強を誇った武田の騎馬隊に対抗するため、
三千丁の火縄銃を集め、それを前後三列に分けたと言われています。

火縄銃には連射ができないという欠点を補うため、この工夫により、
一列目が発射する間に、次の列が発砲の準備するようにしたのです。

ところが、実はこのエピソードは後世の創作であるようです。
実際は火縄銃の数は三千丁ではなく、千数百丁で、
三段構えも行なわれなかったと言うのが真相のようです。

しかし、それでもなお、この戦いにおける織田軍の勝利には、
信長ならではの大きな「仕掛け」が隠されていました。

馬は本来、敏感な生き物でちょっとした音にも反応してしまいます。
一方、火縄銃は近くの人の耳が痛くなる位発射音が大きいそうです。
そしてこれが千丁以上集まっていたとしたら・・・

発砲と同時に、空を切り裂く爆音が轟き、馬は驚いて立ち往生。
馬から振り落とされた武田兵を狙って、弓や長槍ですかさず攻撃。
織田軍は鮮やかな勝利を手にすることが出来ました。

長篠の戦では、武田の騎馬隊をたたくにはどうすればよいか、
それはすなわち騎馬隊の能力を無力化することであると考え、
火縄銃の直接の殺傷力だけではなく、発射音も利用したのでした。

これも、信長が、日頃から馬を乗りこなし、銃の使い方を学び、
それぞれの特性を知り抜いていたからこそでしょう。



また、信長のもう1つ有名な戦(いくさ)として、桶狭間の戦いがあります。

迫り来る今川義元率いる数万の兵に対し、織田軍はわずかに四千。
居城を囲まれたり、会戦での正面対決になれば負けは確実です。
信長は生き残る唯一の策は、奇襲、と確信しました。

そして、奇襲の機会を探っていた信長に、ある情報が飛び込みました。
「今川軍は桶狭間で昼食を取っている」
これを聞いた信長は、いまこそ奇襲の絶好機と確信しました。

道の細い桶狭間ならば、軍が縦に長く伸び、本陣が手薄になっている。
なおかつ、昼食中とあらば、酒を飲み油断しているはず・・・
信長軍は、一気に今川本陣へ突撃、見事に義元の首を討ち取りました。

ここでも、
信長の考え方の特徴が顕著に現れているます。

桶狭間では、戦いの後、大将今川義元の首をとった兵よりも、
今川軍の動向を伝えたものを功名第一としたと言われています。

これも、信長は勝つためには奇襲しかない、そのためには、
仕掛けるタイミングが勝負を決める、と知っていたからこそ
情報の重要性を一番に評価したのでしょう。

信長は桶狭間以後、奇襲戦法を使うことはありませんでした。
桶狭間では最善の策であったが、常に通用するものではないと
理解し、できるだけ優位な状況で戦いに望んでいました。

リーダーである信長は常に優位な状況を作るにはどうすれば
よいのかを考え、そのために必要な準備や情報収集を怠りませんでした。

事前にその戦では何をすれば勝てるかを知り抜き
そして勝利の可能性を最大にした状態で戦場に出たのでした。

勝ち方を知る、これが信長を天下人にさせた最大の要因でしょう。


◎ここで、歴史は皆さんに問いかけます・・・。
是非、少し時間をとって考えてみてください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・あなたの事業がビジネス乱世で成功するための最も重要な
 要因は何ですか?

・成功のポイントを押さえるために、やるべきことは何ですか?

・成功の条件を整える為にあなたは信長から何を学びますか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

参考文献:
・『織田信長 中世最後の覇者』 (脇田修著 中公新書)
・『逆説の日本史9 戦国野望編 鉄砲伝来と倭寇の謎』
                (井沢元彦著 小学館)

この文章は大前研一のアタッカーズ・ビジネススクールが発行するメルマガ【情熱DNA】(まぐまぐ殿堂入り)にて配信した内容です。ご登録いただければ毎週水曜日、お手元に届きます。こちらから

スポンサーサイト



この記事のトラックバックURL

http://abscommunity.blog37.fc2.com/tb.php/80-0a437abf

Template Designed by DW99